釜石市内から両石~峠のトンネルを抜け箱崎へ~集落の避難所
ご訪問ありがとうございます
裁縫ボランティアの前日と翌日の2回箱崎へ行きました。箱崎町は甚大な津波の被害を受け ほぼ壊滅、助かった山の方の世帯各戸に70数名が避難していました。
14歳で釜石を離れたので、余り土地勘がありません。地図上西南の釜石から出発、通常は北の方へ行き、根浜海岸を通って箱崎へ行きます。数日前からの根浜の冠水で東中学校まで来て、迂回を指示されました。鵜住居駅前を通り、両石まで戻り、山道へ、地図中央の峠のトンネルを抜けると山側から箱崎へ出ました。
根浜の冠水を知らないまま北へ向かう~
前方で車が止まった。
ちょうど、東中学校が左手に見えた。↓
釜石東中学校の生徒は隣接する鵜住居小学校の児童と共に
逃げ助かった。それまでの教育と津波後の様子が詳しく書かれてあります。
ここで迂回し戻る途中で鵜住居駅前の惨状を見る。
行き交うのは、親類関係の車か、自衛隊の車です。
自衛隊には頭が下がります。
振り返ると「鵜住居駅うのすまいえき」
こどもの頃の夏休み、金の砂の根浜海水浴場や、母の実家の箱崎に行くたびに降りた駅です。駅前のいとこの店舗も壊滅。
両石まで下り、両石湾から山道に入る。
峠のトンネルを抜けると箱崎に出た。
母のふるさとは、ネットやいとこからの写真で知ったとおりの壊滅状態でした。
夢ではない。裁縫ボランティアの前日でした。
次の日の小川体育館の避難所にはこの先の白浜で被害をうけた方々が多く、母の実家を知る人も複数居ました。
そして、小川体育館の裁縫ボランティアの翌日、箱崎の避難所にも70人くらい居ると知ったので、裁縫ができないか再び訪れてみました。
祖父の眠る墓地が見通せた。
避難所の辺りにやってきた。
山の高い方は津波を逃れました。本当によかった。
下に降りれば、元の町はない。皆さんの気持ちはどんなだろう。
聞いてみると助かったこの地域に戸別に居る人の人数が
70数人とのこと、市内の避難所とはまた違う避難所の在り方でした。
電話も通じなかったので、急な訪問になり、裁縫を一緒にすることは叶わなかったのですが、持って来た布地や裁縫道具が使えますかと聞いたら、とても喜んで受け取ってくれました。
そして、洋裁くらぶの生徒さん達からの可愛いきれいな布をそのとき居た数人の女の方々がとても嬉しそうに一枚ずつ眺めていました。
小さな町に昔から長い間住んでいる人々、中央の殆どが
失われたけれど、地元に住みたいとの希望が多いそうです。
NHKの特集で行政が動いて、 当初の予定より仮設住宅が多く立てられることになったとか。
私のいとこ達はどうするのでしょう。
ひとまず、釜石に帰ります。
途中の両石という町も壊滅状態でした。この写真は防波堤が
石ころのように崩れた様子です。
あまり酷い写真はアップしませんでした。
いえ、そんな写真も撮らなかった。
釜石の沿岸部で捜索やがれき処理をしている自衛隊のみなさんは夕方になると内陸へと帰ります。大通りを隊列をなして様々な自衛隊の車両が通ります。
自衛隊無しでは、何も進まなかったでしょう。皆、自衛隊に頭を下げています。
津波直後から比べたら通りは車が通れるように空きました。でも、まだまだ、ちょっとです。始まったばかりと言ってもいいでしょう。膨大な、信じられないくらいの量の片づけがあります。片づけが終わって初めて家を建てられます。家に落ち着いてやっと今後の目標が具体的になるのではないでしょうか。水産関係の仕事は減るでしょう。雇用の確保無しに人々の生活は成り立ちません。どれ一つも並行して進めなければならないと思います。
皆で知恵を出さなければいけないし、力にならなければいけない。
津波後初のGWの釜石訪問でした。
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